ウォルトはこの時「これはディズニー映画にふさわしいモチーフだ」と直感した。ところが、著者のパメラ・トラバースはそうは思わなかったようである。彼女はイギリスに住むオーストラリア人で、第二次大戦中、ロンドン大空襲を逃がれるために息子を連れてニューヨークに来ていた。
ウォルトは1944年のはじめ、実兄ロイを通じて、トラバース夫人に『メリー・ポピンズ』の著作権を買いたい旨、申し入れたが、ニューヨークから届いたロイの手紙には「トラバース夫人とは和やかに話ができたものの、『メリー・ポピンズ』をアニメーションとして映画化することに夫人は相当の抵抗を感じているようだ」と記されていた。
ウォルトはその後、夫人に直接手紙を送り、彼女がどういう映画にしたいと思っているのか、一緒に話し合いたいのでスタジオに来てほしいと頼んだが、彼女は興味を示したまま、依然としてなんの約束もしなかった。それ以後も彼女の態度は変わらず、十何年かが経過したのであった。
夫人がディズニー側の話に乗ってきたのは、1960年のことである。ウォルトは破格の著作権料を支払った上に、ストーリーの脚色にあたっては夫人の基本的承認を得ることまで約束していたのである。
監督には、『黄色い老犬』や『うっかり博士の大発明・フラバァ』『難破船』など…既にディズニー作品の実績をもっていたロバート・スティーブンソンが、自ら名乗りをあげた。彼自身、エドワード7世時代のイギリスの格式ある家庭に生まれ、幼いころイギリス人の乳母に育てられた経験をもっていた。 また、ウォルトの片腕として働くプロデューサーにはビル・ウォルシュ、原作の脚色にはストーリー担当のベテラン、ドン・ダグラディが起用された。 ビルは、以前にもウォルト・ディズニーという人物を脚本の中に盛り込む…という手法を使ったことがあった。今回も厳格な父親役・バンクス氏にウォルトの人間像をオーバラップさせた。外見はいかにも意志強固に見えるが、中を開ければ心やさしい人、巧妙かつ知恵者で子供にも受けが良い。そして彼はいつも銀行とのあいだにトラブルを起こす…という人物設定がそれである。
作詞作曲はシャーマン兄弟が当たった。二人は仕事を受けてから2週間のうちに、脚本に合いそうな曲を5曲、下書きの形で持参した。その中には『鳥に餌を』や『スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス』が入っており、ウォルトはどれも気に入った。とくに『鳥に餌を』にはすっかり惚れこみ、「あの曲はブラームスの子守歌よりもずっといいな」と言っては、その歌を聞くたびに涙を流したという。
主役のメリー・ポピンズには、当初、原作では中年女性として描かれていたために、ベティ・デービスが候補にあがっていたが、シャーマン兄弟の譜面が仕上がるにつれて歌の歌える女優が必要になってきた。
そこでブロードウェイのスター、メアリー・マーティンに白羽の矢が当たったが、彼女の返事は「もう映画には出演したくない」というものだった。
次に、ミュージカル『マイ・フェア・レディ』で成功を収め『キャメロット』に出演中のイギリス人、ジュリー・アンドリュースが候補にあがった。彼女も、スクリーン・デビュー作が「空飛ぶ乳母」の役…ということにかなりの抵抗を感じていたが、ディズニー側の熱心な説得と、ワーナーブラザーズが『マイ・フェア・レディ』の映画化に自分ではなくオードリー・ヘップバーンを主役に選んだために、メリー・ポピンズ役を引き受けることにした。
この映画があまりにも英国調に傾くのを避けたかったウォルトは、当時テレビの人気ショーを持っていたアメリカ人、ディック・ヴァン・ダイクをバート役に起用。また、風変わりなアルバートおじさん役には、以前コメディーに数回起用したことのあるエド・ウィンを当てた。
こうして『メリー・ポピンズ』は1964年8月27日、ハリウッドのグローマンズ・チャイニーズ劇場で初公開され、招かれた映画関係者から絶賛を受けた。
戦後のディズニー映画をこきおろしていた多くの評論家たちも、今度は何段も紙面を割いて『メリー・ポピンズ』を褒めちぎった。
トラバース夫人は公開記念パーティの席で「かなりの出来ですわ。アンドリュースさんのメリー・ポピンズはよく似合っていると思いますけど、バン・ダイク氏の起用は間違いでしたね。それに私、実写と漫画の合成は好きじゃありませんわ。あの部分はいつカットしてくださいますの?」と詰め寄ったが、ウォルトはきわめてクールに微笑みながら、こう答えたという。「映画が完成したら僕の所有物になると、ちゃんと契約書に書いてありますでしょう。もう、何も手は加えませんよ」
※ボブ・トマス著/玉置悦子・能登路雅子訳『ウォルト・ディズニー〜創造と冒険の生涯』講談社(1983)より抜粋・加筆
私は去年、オーストラリアの首都キャンベラにあるオーストラリア国立大学で、交換留学生として学ぶ機会を得た。2月末から応用言語学を学び、11月末には全ての授業・課題が終わった。さっそく荷物をまとめて、 Northern Territory(オーストラリア内陸部から北部海岸にかけて広大な面積を 占める準州)の首都ダーウィンに旅立った。
ダーウィンへ向かう飛行機の中で、私は今までにないくらいワクワクしていた。私は留学前からアボリジニの人たちに会うのを楽しみにしていたのだが、キャンベラではアボリジニの人を見かけることさえほとんどなかった。それでも3人のアボリジニと会うことができ、その出会いを通して将来アボリジニと一緒に住んでみたいと思うようになった。
今回の旅の目的は、その足がかりをつくることであった。そのため、アボリジニ人口の多い Northern Territoryを旅することに決めたのである。それから約一ヵ月の間に、アボリジニ/白人/アジア人といった人種にかかわりなく魅力的な人物にたくさん出会えた。ここでは、その中から何人かの人をとりあげてその人たちとの思い出を綴ってみたいと思う。
●ジャネット:YWCA職員
宿泊先のYWCAで知り合った、大きな声でよく喋り豪快に笑う、頼れる姐御。ある日私がアボリジニ言語のひとつヨルング語のテキストを開いていたら、それを手にとって "This is my language." と言う。彼女は白人だがアボリジニのコミュニティのそばで11年間暮らし、そこのアボリジニの家族と親戚関係を結んでいるという。滞在中、ダーウィンから600キロ離れたそのコミュニティから彼女の「娘」が生まれたばかりの「孫」を見 せるためにやってきた。私はその娘さんに、覚えたてのヨルング語であいさつしてみた。すると、それまで警戒していた彼女の顔が一変して輝いた。言葉は相手の心をひらく扉なんだなあと改めて感じた。
●レイヴンとそのママ:YWCA泊り客
レイヴンは白い肌をした男の赤ちゃんで、笑うと天使のようである。シングルマザーのママとふたり、YWCAに長期滞在していた。ママはいつも白いコットンのゆったりした服を身につけ、レイヴンを片方の肩に座らせて歩く。だっこするよりもその姿勢の方が赤ちゃんにとってもお母さんにとっても自然なのだそうだ。わたしが「アボリジニと一緒に住みたいと思っている。」と話すと非常に興味を示して「おもしろそう。わたしもやってみたいわ。(伝統的な)アボリジニの生活は自然に最も近くて、自然を破壊することがない。そこでとれる食べ物は体にいいものばかり。子育てのシステムも利にかなっている。アボリジニからはたくさん教わることがあると思う。」と言ってくれた。わたしが一週間ほどYWCAから離れているうちに姿が見えなくなったので人に尋ねると「部屋をひきはらって浜辺でハンモックを吊ってアボリジニの人と生活してるよ。」と教えてくれた。どうやら先を越されてしまったらしい。その後偶然会って話を聞くことができた。ママは今の生活が大変気に入っているようだった。レイヴンは前に会ったときより力が強くなっていて生命力のかたまりのようだった。
●アシュレイ:アボリジニのコミュニティ内の小学校の教師
YWCAで出会った白人の男の子。彼は私とほぼ同い年だが、数あるアボリジニのコミュニティのうちでも最も危険といわれる地区でアボリジニの小学生を教えている。「常に身の危険を感じているがそれでも仕事は楽しい。」と言っていた。
●インド系カナダ人女性??さん:アルコール中毒のカウンセラー
YWCAで出会ったが自己紹介をしなかったので名前が分からない。白人とインド人の両親をもつ。2人の男の子のママでもある。2年半前、オーストラリア中央部にあるアリス・スプリングスで、アルコール中毒のアボリジニを更生させるための施設で働いていた。やっとその仕事が軌道に乗り始めた一年後、契約期間が切れて仕方なくカナダに帰った。今回ノーザンテリトリーを訪れたのは、その施設がどうなっているのか様子をみるためであった。しかしなんとその施設は、トップの人物の横領がもとで閉鎖されてしまっていたのだそうだ。「私が施設を去る時には立ち直りかけていたアル中の男性が亡くなっていた。」とつらがっていた。アボリジニのアル中問題は悪化する一方である。貧困や差別・自分たちの土地を奪われた絶望感などがその原因であるようだ。
●リアン:アボリジニのための教育援助施設で事務をしているアボリジニ女性
私がダーウインの北に浮かぶティウィー島に観光に行こうと思っていると言うと、 自分はその島出身で、お母さんが今もそこに住んでいるから、家に泊まるといいと言ってくれた。私は有頂天になってしまった。テイーウイー島はアボリジニのコミュニティとなっており、アボリジニのコミュニティに入るには地元民の許可が必要なのである。そこのコミュニティは特別に旅行会社と組んで一日ツアーで観光をさせているので一日そこにいることはできるが、宿泊はできない。アボリジニのコミュニティに入れて、しかも家に泊めてもらえるというのは、めったにないチャンスなのである。しかし一週間たってもリアンから連絡がない。やっと連絡がついたのだが、今回は無理だという返事だった。お母さんがダーウィンの病院に来なくてはならなくなったのだそうだ。仕方がない。結局今回の旅では、アボリジニのコミュニティに入るチャンスはなかった。でもいつか絶対にコミュニティに入ってアボリジニと暮らすんだ!と楽しみにしている。
●スー・スタントン:アボリジニの歴史学者
ノーザンテリトリー大学で出会った、あったかくて陽気なアボリジニ女性。彼女は5人の子どもを生み育てた後大学に行き現在大学院で先住民の歴史を研究しつつ講義も受け持ち、その他アボリジニ関係の様々な仕事に携わっている。大変な親日派で「将来日本の大学でアボリジニの歴史を日本語で教えたい。」といい、日本語を勉強する時間がないと嘆いていた。今年はアメリカ先住民の研究をするためアメリカに留学する予定。
●アンティ−・キャシー:アボリジニの識字教育家
ノーザンテリトリー大学でアボリジニのための識字教育に携わっている、陽気で迫力のあるアボリジニ女性。みんなにキャシーおばさんと呼ばれている。スーの紹介で彼女に会ったとき、彼女はちょうどアボリジニの人がかいた絵本を世界各国の言葉に訳して出版するというプロジェクトを進めていて、「英語から日本語に訳してほしい。」と頼まれた。全部で8ページの短い絵本であるが、私のやりたかったような仕事だったので大喜びで引き受けた。絵本は今年3月に出版予定である。
●マイケル・クック先生:バッチェラー・カレッジの言語学者
アボリジニのための大学バッチェラー・カレッジでアボリジニと白人の間の異文化コミュニケーションを教えている白人男性。ヨルング語の専門家で、私がヨルング語を習い始めたが発音が難しくて困っていると言うと、テープレコーダーを引っぱり出して発音テープを作ってくださった。先生がお書きになったヨルング語の文献もくださった。先生の目下の研究は、法廷でのアボリジニと白人のやりとりの談話分析である。先生は以前、法廷で通訳の仕事をなさっていたのだが、白人の検察側がアボリジニの被告人をその英語のハンディにつけこんで陥れる様子を目のあたりにして、これを分析したいと思って言語学の世界に入ったのだという。先生の論文を読んでいるとアボリジニのおかれた社会的に不利な状況への怒りが感じられる。尊敬できる言語学者に出会えてうれしかった。
●マージョリー:バッチェラー・カレッジの学生
バッチェラー・カレッジで道に迷って彼女に声をかけたとき、にっこり笑ってしつこいくらい丁寧に道順を教えてくれた。30〜40歳くらいのアボリジニ女性で、ヘルスワーカーの資格を持っているがさらに保健衛生について学んでいる。アボリジニのお母さんとアラブ人のお父さんとの間に生まれた5人の子どもの中で、彼女の肌の色だけがやや薄かったたために、幼いころ両親から引き離されて擁護施設の中で育った。当時、混血児はアボリジニ・キャンプから隔離し白人の教育をうけさせなくてはならないという法律があったのである。彼女は母親のアボリジニ言語を話すことができないのだが、アボリジニ英語が‘my language’だと誇りをもって語ってくれた。
●クレア:アボリジナルグッズを扱っているおばちゃん
私はアボリジニの子どものためのチャイルドケアセンターで数日間働いて(遊んで)いたのだが、そこで保母さんをしているアボリジニ女性のキャンディスが、「うちのおばあさんがアボリジナルグッズの店をやってるから来てみない?」と誘ってくれた。そのおばあさんがクレアである。品物を大切にする人にだけ売りたいらしくクチコミで客を集めており、値段も良心的だった。彼女は、もうすぐひ孫が生まれるとはとても思えないくらいに若々しくて、朗らかな人であった。しかし、彼女も8歳の時両親から引き離されてキリスト教のミッションで育つという経歴をもっている。しかも両親と別れる直前に白人のお父さんが銃で撃たれて死ぬのを目撃し、それまでの記憶を全て失ってしまったという。つらい歴史を背負った人たちは、なぜこうも明るくあったかいのだろうと思う。顔いっぱいの笑顔が心にのこっている。
●リタ:もと教師
ダーウィンの浜べには、朝から晩まで宴会をしているアボリジニの人たちがいる。知り合いの人についてきてもらって、その人たちに話しかけてみた。みんな私たちを温かく迎えてくれた。その中のひとりがリタである。彼女は「アボリジニのコミュニティに入るのに許可書がいるのは白人だけだ。アジア人のあなたには必要ない。」と言う。これは間違いで、アボリジニのコミュニティに入るには、アボリジニでない人は全て許可書が必要である。彼女のことばは、アジア人への友好的な態度を表していると思った。北部海岸では、白人入植以前からアボリジニとインドネシア人との間に交流があり、20世紀初頭には多くの日本人や中国人の漁民が海岸を訪れていた。そういった歴史的背景が影響しているようだ。
一般的にいって白人系オーストラリア人のアボリジニへの偏見は根強い。今回の旅で、アボリジニとふつうに接する白人にこんなにたくさん出会えたのは驚くべきことだと思う。思いかえせばふしぎな気がする。たまたま泊まっていたYWCAでアボリジニ関係の人にたくさん出会えたこと。初めに飛びこんだアボリジニのための教育援助施設から人脈が少しずつ広がっていったこと。それらの出会いはすべてわたしのために用意されていて、わたしはただその糸をたぐりよせていたにすぎないんじゃないか…そんなふうに思えてくる。早くあの人たちに会いに行きたい…とすっかり逆ホームシックにかかってしまっている今日この頃である。
●アボリジニとは
昌也さん、ただいま〜っ、じゃない、おじゃマしま〜す!!
昌也さんのお宅はJR神戸線の塚本から歩いて7分ほどでしょうか。大阪駅から電車に乗ったら15分後には家の中です。最近ではその地の利を活かして(活かされて?)、よどこん&なにコラの“セミナーハウス”となっています。そう、この家もまた広いんです。3階建てになってまして1階は駐車場、玄関は階段を上がった2階です。中に入ると和室が二部屋(大小)、それにひろ〜いリビングダイニング&キッチンという間取り。3階は、え〜と、よく知りませんが四部屋ほどでしょうか。とにかく2階だけで30人弱が騒いでいたことがありましたっけ…。広い家は掃除が大変といいますが、昌也さんもやはり週末は“主夫”になるそうです。
さて、18時前に「ただいま〜」などと言いながらリビングに入ると、ムワッと熱気が…。そこに追打ちをかけるように様々な香りが…。テーブルの上にはケーキやお菓子が山のようにあります。う〜ん、さすがに女性だけが十数人もいるとすごいなあ。(なぜか)逃げるように男性全員(3人だけ)で買い出しに行きました。帰る途中で、道に迷っていた平尾さんを偶然見つけて4人で戻りました。戻るとすぐに、ちえchanとうずchanと“週末主夫”昌也さんの3人で下ごしらえが始まりました。
昌也さんは“週末主夫”だけあってすごくマメです。それは週末を一緒に過ごせばわかります。ある日、泊めていただいた時のことです。かなり遅くまで起きていたのですが、寝る前に(酔っているのに)布団をひいてくださいました。次の日も9時には起きて買い物。さらに掃除、洗濯、ご飯の用意は僕が起きるまで(昼前でした)に終わってました。僕が起きるとすぐご飯を用意して下さって一緒にいただきました。もう、ここまできたらペンションでも開けますね、昌也さん。
ところで宴会ですが、今回はぎょうざ鍋。始まる前に亘君が、さらに19時頃には転勤した大屋さんも来られて、総勢15名で“セミナーハウスまさやん”での、その日二度目の宴会が行われました。鍋はおいしく、酒はうまい(飲んでないけど)。心易い人達との時間って本当に楽しいなあ、とまたまた良い時間を過ごしました。気が付けば21時を回っています。当然誰も帰ろうとはしないので後片付けをして(和室でやってました)、リビングに場所を移して2次会となりました。
さすがに皆さん、翌日が仕事だったので22時と23時に分かれて帰りましたが、2次会も楽しかったですね〜。古賀氏のソロも聴けたりして。僕は結局泊めていただき、またもや2時過ぎまでLDを見ながらいろんなお話をしたのでした。
“いい人”という言葉は、昌也さんにぴったりだなあと最近つくづく思います。本当はもっと書きたい事がいっぱいあったのですが、残念ながら誌面が尽きました。続きはまたいつか、別の形で…。昌也さん、ありがとうございました。
そう、ちょうど、9年前の1月の朝刊の片隅に、尊敬するロシアの詩人の死を報道する崇業の記事を見付けてしまった時と全く同じような具合で…。
20世紀の世界の音楽シーンに大いなる影響力をもって活動した巨人…多くの文学者や詩人や画家、映画監督などを巻き込みながら、日本の前衛芸術運動を軽やかに動かした天才…。しかし、何より、「音楽を」…、「うた」を心からあいした音楽家。…<武満徹>の死は、私にとっても、悲しく、悔しい衝撃であった。今はただ、早くこの事実が、過去の(…歴史上の)出来事に変わってしまってくれないかという事だけを願いたい。幾ら追悼の言葉が並べられたからといって、あの鋭い眼光から研ぎ澄まされて紡ぎ出される優しい言葉はもう生まれてはこないのだから…。
私が拙くも「音楽を表現する」という世界を自分の中に残し続け、「歌うことが生きている事と同じぐらい重要だ」という事を時々にも自覚することで自分を励ますことが出来るようになったのには、尊敬する二人の音楽家の存在があったからだ。一人は直接に指導を受けた福永陽一郎。そしてもう一人が密かに私淑していたというべき音楽家、<武満徹>なのだ…。
武満徹を心から追悼する。
合唱音楽の精髄は、言うまでもなく、「調和」の達成にある。西欧音楽から学ぶことの本質がそこに端的に顕われている。だがそれは、たんに美しい和音を響かせて事足りるだけのものではない。「調和」は結果ではなく、重要なのは、それへ到る経緯である。それは美的な鋳型に自己を嵌めこむことではない。他との関わりのなかで自分を確かめる歓び、これが結果として美しい響きとなって聴こえてくるのが理想である。これは今更書くべきことでもない。合唱が幅広くアマチュアにも愛好されているのはそのためである。そして実際、合唱の歓びはそのプロセスに直接身を委ねることにある。合唱を聴く歓びは、勿論小さなものではない。だが、「合唱」を実践する歓びと感動は、常に、それに勝っている。
専門の合唱団が、最近、そのレパートリーに、あるいは上演形式に劇場的な配慮を行っているのは、かならずしも美学的な要請のためばかりではない。それは聴衆をより多く合唱の実践の経緯のなかへ参加させようとする意との発露であろう。
実際に、作曲家の立場から「合唱」というものを考えると、合唱音楽にはオーケストラや器楽団とは異なった魅力と同時にまた困難がある。それは、人間の肉体(声)を直接媒体としている点である。声の旋律的な線(ヴォイシング)をそれぞれ有機的脈絡のなかで、しかも物理的にも無理がないように作曲をするのは、さほど容易ではない。他の道具(楽器)を介在することで許される過剰な運動も自ら制限されたものとなるし、だが、新鮮な響きと新しい「調和」が醸成される場は、当然しつらえなければならない。合唱を作曲するのは、したがって、作曲家にとっては音楽というものをその根源から考えるためにも重要な課題であり、同時に、基礎的な訓練たり得るように思う。
私自身は、嘗て『風の馬』という作品しか書いた経験しかないが、そうした「合唱」というものの重要性に気付いてから、東京混成合唱団という媒体を借りて、少しずつ実践的な合唱体験を深めたいと考え、アンコールで歌われる平易な小品の体裁で、合唱書法の実際を試みたり、また注意して、合唱音楽を聴くように努めている。考えてみれば、音楽のなかで合唱音楽の歴史程深く長いものはない。またそれはかなり時代変遷を遂げて現在に至っている。中世合唱音楽等を聴いていると、合唱音楽の可能性は、未だ、涸れてはいないだろうと思う。だが周囲を見回しても、どうも今日の合唱音楽は、相互に作用し合うダイナミズムを失ってしまっているように思う。そこでの「調和」は、小さく、自己完結してしまっている。「調和」への果てしない欲望、この官能性を失った歌は、剥製のようなものだ。それでは私たちは「世界」を見失ってしまう。
■音の誕生
アメリカの作曲家、ジョン・ケージが面白いことをいっています。
かれは、ある時、実験的に作られた無響室というものにはいる機会がありました。それは、反響を意図的に、物理的手段によって極端に控えた空間で、つまり空間振動を、人為的に94%まで不能にした、反響の無い箱のような空間です。ジョン・ケージは、はじめ、無響室は全くの無音の状態なのだろうと考え、完全な静寂、沈黙というものは一体どんなものだろうと思ったそうです。無音室にはいって、だが暫くすると、かれには二つの音が明瞭に聴こえてきました。ケージはそれらの音を驚きをもって聴いたのです。最初はそれが何の音であるか戸惑いました。だが、そのひとつはかれ自身の心臓の鼓動であり、他の音は、かれの体内を奔流のように走っている血液の音だということに気付いたのです。その体験を経てジョージ・ケージは、沈黙は無数の音に由って充填されている状態なのだ、というひとつの哲理を得たのです。
私もジョン・ケージのこの考えに同感します。私たちの周囲を、音は絶えざる生成を繰り返しながら、河のように流れています。私たちがそれを主体的に聴き出した時に、私たちは、音の誕生の瞬間に出会うのです。それは実に、美しい機会なのだといえるでしょう。
音は音自身の運動を、私たち(人間)とは無関係に続けているのですが、私たちが、その音のたたずまいや、変化を、注意深く聴き取るとき、私たちは、人間にとっての音の生成の瞬間賭立ち合うのです。音楽作品が、もし人間を感動させないものであるとすれば、それは、因習にとらわれた方式のなかで、すっかり形骸化してしまった音で作り上げられたものだからです。
音楽は常に生成し続ける音(の変化、様相)を聴きだし、それを内面的な持続へ変換する行いなのです。
何年か前に映画『砂の女』を観た時の強烈な印象を今でも思い出します。音楽が今までの殻を破った現代音楽で、とても異様には感じながらもその効果はすごく、一体誰の音楽かしら?と思って観ていたのですが“武満徹”の名をこの時初めて私は知ったのでした。
音楽だけ聴くには余り好きな分野ではなかったので、今度よどこんで歌う迄は、彼の存在は私の頭の中から消えていたようです。でも先日テレビで彼の追悼番組を観て(聴いて)彼のユニークさ、偉大さをあらためて感じるようになったのです。音楽場面では、画面を見ず、目をつむって彼の音楽を聴いてみました。そこにはバルトークでもなく、シベリウスでもなくドビッシーでもない、武満徹の世界がありました。"Family Tree" では弦楽器やクラリネットの高い調べが気高く冴え、何かこの世から離れた幻想的で美しく崇高なものさへ感じられるようでした。立花隆の言う彼は違う星から来た人のようと言うのはこれなんでしょうね。
彼の遺作となったと言う "Air" のオオボエの奏でる高音のメロディは、違う星から来た人の孤独の淋しい旅立ちのように聞こえました。
この番組をご覧になった方も沢山いらっしゃるでしょうが、独り善がりの感想文にお付き合い頂き、申し訳ございませんでした。
朝…、一面の雪景色におどろいた2月17日、土曜日。フェスティバルホールでポーギーとベスを観ました。席は2階の通路後ろで真中のベスポジ!! 舞台の両サイドには電光の字幕がsetされていて、訳詩が出るのでとてもありがたいのですが、舞台に集中しようとしても、ついつい文字を見てしまう。この英語が理解できたなら…という気持ちが幕間に私の手をパンフレットへと伸ばしたのです。
パンフレットの中の訳詩を読み始め、これを読めばもうバッチリ…と思ったその矢先、隣のカップルの彼女が私と同様に訳詩を読み始めた彼に言ったのです。
ポーギーとベスが黒人キャストでしか演じられないンだということすら知らなかった私ですが、よどこんの演奏会の記憶と谷さんからの前情報により、客席にとり残されることなく、かろうじてではありましたが舞台の流れについていけました。
本当のポーギーとベスのオペラを、私は何%理解できたのでしょうか。ひょっとして10%に満たないかもしれませんが、私自身のポーギーとベスは100%感じることができたと思ってます。
言葉を越えた音楽(歌)の素晴しさ、そしてそれを人に観せることの素晴しさを…。
※本コーナーはONLINE版ではお楽しみいただけません。
オーストラリア大陸の先住民。今から少なくとも5万年前にオーストラリア大陸およびその周辺の島々に住み始めたといわれる。アボリジニというのは単一の民族の名前ではなく数百ある民族の総称である。かつては六百以上の言語が存在したといわれ、現在でも百以上の言語の存続が確認されているという。18世紀末、白人が入植し、アボリジニ絶滅政策をとったため人口が激減した。その後、同化政策がとられた後1960年代から保護政策がとられ地位が向上しつつあるが、収監率や、病気にかかる人の割合が非アボリジニよりもずっと高く、アボリジニに対する差別の問題もまだまだ根深い。とくに都市に住むアボリジニは遠隔地に住むアボリジニに比べて貧民化の傾向が強いといわれる。遠隔地の自治区に住むアボリジニは狩猟採集社会経済の伝統を強く残しており、何万年も前から受け継がれた豊かな精神文化も息づいている。
●今月のひと●それじゃあ、マァ おじゃマしまーす
第6回はレク委員長宅。西淀川 坂口邸の巻
そのとき、僕は電話で山崎さんと話していました。3月3日、テナーの坂口昌也さんのお宅で催された“ソプラノ・ひなまつりパーティー”の後の、ぎょうざ鍋宴会の模様を、自分でも思い出しながら話していたのでした。
山崎「で、“ひなまつりパーティー”は?」
木場「いや、それが…。」
というわけで、今回はぎょうざ鍋宴会からお送りします。
Liner Notes by Itoh Keishi
第19回■武満徹を心から追悼する
武満徹の死を知った時、全く「不意討ち」を食らってしまった…というような大きな動揺と後悔(…そういうそういう可能性があるんだという事に関して前もってもっと用心しておけば良かった…というような…)(…もちろんだからといって、どうすることも出来ないのではあるが…)にとらわれ、身動きが出来なくなってしまった。
■調和の幻想
●引用●『音楽を呼び覚ますもの』(武満 徹)より
近頃でこそ、「調和」ということばはいとも気軽に口にされるようになったが、これは(私たち)日本人にとっては、あるいは、かなり掴みにくい概念ではなかったかと思われる。それは観念ではなく、実践を示すものであり、「調和」は生きた社会生活のなかで体現されるものであって、その意味では、昔ながらの日本人にはあまり身近なものではなかった。何かに所属したり従属したりすることは、半ば制度化されたものとして存在したが、日本では、それによって「自己を生かすと謂うよりは、むしろ、己を無にすることが常に絶対的な前提なのであった。つまり、その調和は、封建的な倫理感に強く支配されたものであり、自己の存在や主張を生かしながらそこに和を生みだそうとする近代的な「調和」とは、本質的に異なるものであった。(西欧)近代的な「調和」は、社会的相関において、動的な変化のなかで実を結ぶものであり、それに比べて日本(人)の和は、きわめて静止的なものである。
音は、生まれた瞬間に消えていきます。音による芸術の比類ない美しさは、たぶんそのことに由るでしょう。その音の性質を、脆いとか、あるいは儚ないといってしまうのは、だが誤りであるように思います。音の物理的な強さや弱さということは、たしかにあるにせよ、音は、単に物理的に想定できるものではありません。音は、人間の生命のように、宇宙的な秩序、その絶えざる循環を生成しつづける存在なのです。音は、大きな自然の影響を受けて、複雑な質感を具えて、私たちの周囲に現われます。機械的に繰り返されているように感じられる音でさえ、異なる時間空間、異なる気温のなかで、それは常に異なった様相を示しているはずです。そうした変化を聴きだせないのは、(私たち)人間の怠惰の故です。
●寄稿●"武満徹"の残したものは
Alto 河渕清子
●REPORT●わたしのコンサート評
■ヒューストン・グランド・オペラ「ポーギーとベス」
読者/OL 山内真子
於 フェスティバルホール(2月17日)
「ドラマの先を読むようなことは止めてよ!!」って。
その言葉を右耳でハッキリと聞いてしまった私は、彼と同時にパンフレットを閉じてしまいました。
演出家が「コーラス部分を充実させたかった」とパンフレットに書いてありましたが、その素晴しいコーラスの喜怒哀楽の表現は、今晩のフェスの観客全員をつつみ込んでいたように感じました。
そして舞台は暗くなり…1人1人がローソクを持って、遭難したかもしれない友人のことを想い歌うシーンでは、もう…目頭がうるむことなく観ることはできませんでした。
●遠藤久顕の演奏会情報●
【山下清の巻】ぼぼぼぼぼくは「えんそうかい」っていうのはまだたべたことな
いんだな。でもおかあさんがなんでもたべなさいっていうからすききらいはない
んだな。そういえばきのうからなにもたべてないのでぼぼぼくにおむすびをくだ
さい。
March●3月
日程・曜日 団体名 会場
10・日 第10回伊丹市民オペラ 伊丹アイフォニック
16・土 吉村信良と男声合唱の世界 高松市民会館
Sop.平尾さん結婚式 オオサカサンパレス
31・日 大阪H・シュッツ合唱団
バッハ「マタイ受難曲」 いずみホール
April●4月
日程・曜日 団体名 会場
6・土 混声合唱団AYUMI 森ノ宮ピロティ
ハノーバー少女合唱団 京都こども文化会館
7・日 バーデン市立劇場
オペレッタ「メリー・ウィドー」SAYAMAホール
13・土 Bas.向井さん&Sop.大村さん結婚式
14・日 ハーバード+京大グリーOB 京都コンサートホール
17・水 ウィーン少年合唱団 京都コンサートホール
19・金 ウィーン少年合唱団 ザ・シンフォニーホール
21・日 京都バッハ合唱団 京都府民ホール
関西合唱連盟創立50周年
記念演奏会京都コンサートホール
モーツァルト「ドン・ジョバンニ」 いずみホール
'96メサイア演奏会 大津市民会館
May●5月
日程・曜日 団体名 会場
3・金 第7回コーラスワークショップ in 徳島 徳島県郷土文化会館
5・日 Sop.織田さん結婚式
11・土 トン・コープマン指揮
モーツァルト「レクイエム」ザ・シンフォニーホール
17・金 小沢征爾 指揮
歌劇「蝶々夫人」尼崎アルカイックホール
●WITTY BREAK●遠藤久顕の位相幾何学概論
Macを起動したらいきなり画面にヘアヌードが出てきたのでビックリしていると、見ていた先生に「おっ。好きだねえ、君も。」と言われてしまいました。犯人は同室のネットサーファーH氏なのに…。第14回は「3変数UNO」です。
●木寺洋介のHow do you do?●
3、4、5月とメンバーの結婚式が相次ぎます。予備軍も続々と(というほどではないか)生まれつつあるようで、まことにめでたいことであります。
私がこういうことを言うと「お前はどうやねん?!」と、必ずツッコミを入れる奴は後を絶たないのですが、そんなことは私の知ったこっちゃありません。なんたって私「人事(ヒトゴト)マネージャー」ですから…(あ〜クダラン!!)
※新婚さんの住所は次号に掲載します。