敗戦の翌年16歳のころ、進駐軍放送の音楽を聞くうち、作曲家の道に進むことを決意。アルバイトをしていた横浜の米軍PXで、昼間人のいないとき、ホールのピアノで独習。ほとんど独学で作曲を勉強、1950年デビュー作「二つのレント」を発表。1957年初演の『弦楽のためのレクイエム』を、後にストラビンスキーが激賞し、欧米でも注目されていく契機となる。
1967年、琵琶や尺八を用いた「ノヴェンバー・ステップス」が小沢征爾指揮のニューヨークフィルで初演され好評を博す。1980年「バイオリンとオーケストラのための“遠い呼び声の彼方へ!”」により二度目の尾高賞受賞、同年春には芸術院賞も受賞。繊細、緻密な感性による響きの美しい旋律が特徴的。
また、1973年以来東京・セゾン劇場で毎年催される「今日の音楽」現代音楽祭の芸術監督を務めて海外の新しい動向を紹介してきたが、1992年、20年目を迎え小休止。一方、「怪談」「切腹」「心中天網島」「乱」「東京裁判」などの映画音楽の作曲も手がけるなど幅広く活動。文章にも独特のスタイルがあって若い層に人気があり、大学入試の国語の問題によく使われている。
著書に「音・沈黙と測りあえるほどに」「樹の鏡、草原の鏡」「音楽を呼びさますもの」「夢の引用」など。対談集に「音楽」「すべての因襲から逃れるために」「オペラをつくる」などがある。
受賞歴■尾高賞【第2回】(1953)、芸術祭賞奨励賞(1958)「管弦楽のためのソリテュードソノール」、毎日映画コンクール音楽賞(1961,'62,'64,'66,'69,'71,'73,'75,'78)、ブルーリボン賞音楽賞(1962,'63,'66)、国際現代作曲家会議・最優秀作品賞(1964)「テクスチュアズ」、年間代表シナリオ(1969)「心中天網島」、尾高賞【第24回】(1975)「カトレーン」、日本アカデミー賞音楽賞【第2回】(1979)「燃える秋」「愛の亡霊」、日本芸術院賞(1980)、尾高賞【第29回】(1980)「バイオリンとオーケストラのための“遠い呼び声の彼方へ!”」、モービル音楽賞【第11回】(1981)、朝日賞【第55回】(1985)、フランス芸術文化勲章(1985)、日本アカデミー賞音楽賞(1986)、京都音楽賞【第3回】(1988)、飛騨古川音楽大賞【第1回】(1989)、国際文化デザイン賞(1989)、日本アカデミー賞音楽賞【第12回】(1990)「黒い雨」、国際モーリス・ラベル賞(1990)、東京都民文化栄誉章(1990)、リーズ大学名誉音楽博士(1990)、ダラム大学名誉音楽博士(1990)、毎日芸術賞【第32回】(1991)、サントリー音楽賞【第22回】(1991)、国際音楽評議会賞(1991)、ユネスコIMC賞(1991)、国際交流基金賞(1993)、NHK放送文化賞【第45回】(1994)、グロマイヤー作曲賞【第10回】(1994)、アメリカ映画音楽保存協会(SPFM)功労賞(1995)
出典●日外アシスト人物DB(1995年6月現在)に加筆(編)
※本文は執筆者の許諾を得ておりませんので、ONLINE版への転載は慎みます。なお、PHILIPS/日本フォノグラム社のCD『明日ハ晴レカナ、曇リカナ』関屋晋 指揮・晋友会合唱団(PHCP-5133,\3,000)に添付されている解説書から全文を引用していますので、そちらを各自ご覧ください(編)。
さてこのCDは武満徹の「大衆歌謡」を「今日的感覚」によるアレンジで仕上げ、石川セリが歌うという企画になっております。
僕が気にいったのは、石川セリのアンニュイ(死語)な声質とボサノバ調のアレンジが絶妙な「死んだ男の残したものは」と、セサミストリートのテーマを思わせる軽快な「○と△の歌」。
コシ・ミハルのアレンジはなかなかサエてまして、特に「恋のかくれんぼ」なんかは、中期YMO(BGMとかテクノデリックの頃)をホウフツとさせ往年のテクノ(死語)ファンにはナミダものなのであります。
と、ほとんどアレンジのことばかりでしたが曲は皆さんよくご存じのものばかりなので敢えてそうしました。
ただし、あんまり聞き過ぎると肝心の演奏のときについメロデイを歌ってしまう!?ってことになりかねませんので、ホドホドに。
Best CD●恐るべし合唱人のネットワーク?!
Bass 太田直樹
サイバースペースを駆け抜けた…この1枚
皆さんもうお聞きになりましたでしょうか?よどこんのベースだけでも既に3枚の売上を誇る石川セリ「翼」を!
ちなみに、林さんは阿佐ケ谷で購入しようとしたらなんと売り切れだったらしい。
これって東京の合唱人達が買いまくっているのか?そうに違いない。うーむおそるべし。というのも、とあるパソコン通信には合唱フォーラムなるものがございまして、世の合唱人達はそこであやしげな情報交換をしているわけです。
このCDも紹介されていたものだから、ただでさえ狭いこの合唱界でたちまち話題になり、それで阿佐ケ谷売り切れ事件が起こったに違いない、そう思うわけであります。
よどこんのベースだけで3枚も売れたぐらいだから全国では、数千は売れてるでしょう。ほとんどプロモーション無しで(恐らく)口コミだけでこれだけのセールスが出来る合唱人のネットワーク、おそるべしであります。
今度の演奏会でもとりあげる「小さな空」、「島へ」、「死んだ男の残したものは」なども収録されてます。
「今日的感覚」のアレンジといっても、trfや安室奈美恵なんかの「小室系」なビートききまくりのノリではなく、「ミュージックフェア」ノリの落ち着いたアレンジが主流です。服部克久や前田憲男の雰囲気ですね。アレンジャー陣には、羽田健太郎やコシ・ミハルなんかも参加してて結構ゴーカなのであります。
また「雪」なる曲も、おっDOORSか?と思わんばかりの暗いイントロにスライドギターなんか入ってて結構サイケ(死語)。
気になるお値段はなんと3千円!このご時世にちょっと割高な気もしますが、合唱でしか聞いたことの無かった武満徹のうたを新鮮な思いで聞けるとなれば致し方ないでしょう。
武満の音楽は難解というよりもファンタジックである。哲学的というよりも詩的である。たとえばケージやシュットクハウゼンを経た現代音楽は、西洋音楽のあらゆるメソッドから解放されはしたが、現代美術と同様に陳腐な前衛主義へと陥ってしまった。音楽の本来の持ち味である感覚への訴え掛けをおろそかにしてしまった為に、実験音楽という名の高い塀で自らの世界を囲むことになってしまいがちであった。もちろんこのことは単にクラッシック音楽というジャンルにかかわらず芸術史全体にのしかかっていた課題であるとともに、近代から現代に向かう世界の時代精神に根差した課題ともオーバーラップしていると言える。つまり、常に時代精神をリードしてきたはずの近代西欧の音楽(文明)−音楽的にはバッハ以降に継承されてきた西洋音楽の音階や秩序(啓蒙主義以降の合理主義と進歩主義)−が袋小路に行き詰まり、新しく開かれるべき可能性に対して戸惑いのみが感じられていた時代において、多くの表現者はその戸惑いのあまりに、構造主義音楽やチャンスオペレーションまがいの前衛表現や(まるで画家が絵筆を捨てて、絵の具を投げ付けて仕上げた絵画のように)あるいは、偏狭なナショナリズム(反西洋志向や折衷志向)という泥沼に嵌まり込んでしまった。
もちろん武満徹の音楽の表層には、今に述べた、実験精神と日本の楽器や雅楽を巧みに取り入れる世界音楽的な音作り(初期作品において)が読み取れる。しかし、それ以上に武満音楽を決定する普遍的で大きな要素が『メタファーの喚起力』なのである。
武満の音楽に満ち溢れている『メタファー』とは、例えばベルリオーズが行ったような音(オーケストレーション?)の象徴性でもなければ、ワーグナーが行ったようなテーマ(表現内容)の象徴性でもない。ましてやシェーンベルグの色彩オルガン(音に合わせて異なった光線が反射する…)的な実験的象徴ではない。(アンドレイ・タルコフスキーがその映画で宇宙的な神秘を「水」や「炎」や「鏡」という『メタファー』を使って喚起させたのに極めて近い性格を持っていると思うのだが…。)
武満は好んで「夢」と「数」という言葉を使っている。
「…私の中に、予告なしに現われてくるある不安定なもの…つまり自分の内面に衝き上げてくるある種のもやもや…そうした『夢の縁』を音楽的に、また数の操作を使ってはっきりさせようという気持ちがあるのです…」
と、武満自身も語っているように、武満の『メタファー』は『夢』と『数』という宇宙を司る無意志的な要素によって成立していると言ってよい。70年代の傑作の中に「鳥は星型の庭に降りる」という曲があるが、武満は宇宙的な無限の世界をロマンチックに表現するのではなく、作曲者の意図や目的に支配され過ぎない音の連なりを作るために「音階」の「数学的」な組み合わせによって新しい表現の地平を切り開いている。星型(Star)とは調和された五角形をベースにした図形であると共に、無限の宇宙空間をイメージさせ、鳥(Bird)はそこを自由に飛行する翼を持った宇宙船のようなイメージを掻き立てさせる。しかし、使われた音階は音階を円形にした時の中心Cから最も遠い位置にあるF♯を基音とした図形的な配列である。あるいは「海へ」というロマンチックなタイトルの曲は、もちろん優しく荒々しい生命の源として循環する海のイメージを使いながらも方法論的には(海:Sea)という単語の音階(E♭,E,A)を基本に使うという技法に基づいている(もっともこれに類した技法はバッハの時代から存在するが…)
しかし、武満の作曲の中で、音階の数学的(図形的な)操作は、無機的な音の連なりに変化するのではなく(…そう言えばヘルマン・ヘッセの「ガラス玉演戯」という未来小説にそのような無気力なパフォーマンスが登場していたが…)遊び心すら持った表現の多様性に結び付いている。「数学」というと、つい無機的なイメージを持ってしまいがちであるが、「数学」とは人間の小さな英知で発明したものではなく、宇宙的で無意志的(汎個性)な神秘であるという事を思い起こしてほしい。もちろん我々が夜見る夢も、個人の意志や希望とは無関係に見てしまう曖昧なものであり、武満の音楽は、我々の世界が不定形な想像力と神秘の定理に囲まれているという事を喚起させてくれる。そして、ちょうど、ジェームズ・ジョイスが言葉と物語とで「クラインの壷」のような相互内包的関係を作り上げたように、武満においては音と和音、さらには音階と音階に名付けられた名称(言葉)とで、それぞれがその他のものを包み込むという二重三重の内包関係を作り出す多義性が与えられている。記号論でいうシニフィアン(言葉)とシニフィエ(言葉の内容)と同じ様な概念のズレを生じさせることで特定の意味や意志に囚われすぎないイメージを醸し出させているといえるのかもしれない。そして、それらに用いられている『メタファー』は実験の意図的な象徴性という枠を越えて、人間の感覚に直感的にある感情やイメージを『喚起』させる力を持つ音の連なりとして表現されているのである。
武満がミロやデルヴォーの絵画からの影響を受けた曲を書いていることはよく知られているし、デュシャン、滝口修造、のイメージに基づいた曲も多数存在しているが、その不可思議でファンタジックな表現、意識と無意識とが交錯しながら統制されずに変形していく様はシュールであり、また、なまめかしくもある。解読することが無意味でありながら、多くの解読に開かれた音の配列…、そして、音が曲を形作る為に機能するのではなく創造力の翼として自由に飛翔する…それが武満の音楽なのである。
さて、このように書いてくると『混声合唱のためのうた』は武満の音楽文体の中では極めて例外的な位置にあると思われがちだが、必ずしもそうではない。武満徹が偉大な作曲家であるだけでなく、『愛すべき作曲家』である理由はおそらく、メタファーがユーモアに、数学がポエジーに昇華し、武満自身の人間性に根差した芯の部分『うた=SONG』だけが残った時に最もあきらかになるのではないか。武満のギター曲(編曲)の数々をご存じだろうか。SummertimeやビートルズのHere There and Everywhere など、音楽のジャンルをものともしない素敵な曲ばかりが入った曲集には『…地球は歌うよ…』という楽しげなサブタイトルがついている。もちろんこちらも技術的にはかなり高度なテクニックを要求しながらの編曲であるが、個人の意図や思惑や偏狭な実験精神やもちろんイデオロギー的なものをそぎ落としたようなシンプルなこの2つの曲集には武満の『音楽が好きだ…』という素直な気持ちが溢れているように思えるのだ。そしてまさしく、あらゆる解釈とキーワードに先立ってその気持ちが感じとれる事こそ、この作曲家が真に偉大であることの証しなのだと思っているのである。
P.S. (やや逆説的に…)
『混声合唱のためのうた』において我々は、武満の音楽を信じ過ぎるべきではない。
(武満は和声の調和で曲を自己完結させないようにしているような気がしてならない…。リズムもメロディーも和音も、楽譜自体がどこか調和への欲望を持ったままなのである。)
武満は明らかに『言葉』(敢えて歌詩とは言わないが…)を生かすための余地を残している。
(これは明らかに『うた=SONG』なのだから…。)
もちろん、『音楽』と『言葉』とを補完させるのは僕らの感性だ。そして、そこには、武満の音楽でもなく、谷川俊太郎の作品でもなく、我々自信の感性が『…僕らはうたうよ…』とでも言うようにとして立ち昇ることになるのだから…。
P.S.-2 (やや説教めいて…)
それにしても、多くの合唱人と呼ばれる人々が『混声合唱のためのうた』以外の武満徹の曲を聞こうとしない。そして、多くのクラシックファンと呼ばれる人々が武満徹が「映画音楽」の作曲家(ドラマの主題歌などもある)であることを知ろうとしない。そしてまた、そのどちらもが、武満が流れるような文体で素敵な文章を数多く残していることを知らない。「武満の世界」に足を踏み入れると、世界はもっと広くてもっと軽やかなのだと気付くというのに…。
結局、ほとんど朝までかかって仕事を片付け、いつものように仮眠をむさぼって…10時半には福島のプロダクションへ入稿する。雑談のあと、クライアントとの折衝は担当者に任せて、すぐ隣のホールへと向かう。
※ま、中世の「伊勢参り」じゃないですけド…、合唱人たるもの、一度は名だたるホールの舞台を踏んでみるのも、良い経験ですよ。
※本コーナーはONLINE版ではお楽しみいただけません。
※本コーナーはプライバシー保護のため、ONLINE版には若干の制限を加えています。
●NEWS●関西合唱連盟50周年記念に…
さて、超難解な「構造主義」の随筆のあとに、こちらは「記号楽」の話題をひとつ。
昨年は終戦50年で何かと話題が豊富でしたが、引き続き…今年も50周年を向かえる団体が後を経ちません。経団連や同友会、日本商工会議所なんかもそうですし、日本デザイナー協会や関西合唱連盟もそのうちのひとつ。抑圧された経済や文化が、徐々に正常を取り戻しつつあった当時の社会情勢が窺えます。
ところで、その関西合唱連盟では、これを機に、シンボルマークを募集。合唱界にとどまらず、一般紙面などを通じてひろく公募した。編Tとしても…前回の経緯もあって黙殺することもできず、超多忙なスケジュール(?!)を縫って、締切間際の1月8日…考案したデザインの中から1点を事務局に宛て送付した。
ただし、審査の日程は聞いておらず、もちろん…選考された訳でもないので、それをここに掲載するのは、幾ら「ド厚かましさ」で名高い編Tでも憚られます。そこで紙面の賑わいに…ボツにした習作を含めて、途中経過をすべて、一挙公開いたします。初春のお慰みに御覧いただければ幸いです。(編T)
●ESSAY●わたしのスサノオ奮戦記
Bass 谷卓司
何で八幡くんだりでゲネプロすんの…という疑問は石清水八幡宮で氷解した。大事なスポンサーの1社(?)だったのだ。会場と宿坊のアリガタイご提供なのである。
ここで初めて青島先生と対面する。中やすみの休憩を待って御挨拶に伺うと「初めまして…じゃないよ。こんばんわ!」とまるで旧知の仲だったかのよう…。僕ってそんなに有名だったっけ(ンな訳ない!!)…と怪訝な顔をしていると「ホラ、いろいろ送ってくれたパンフの中に…君の顔も載ってたでしょ。」
そういえば、関西歌劇団の太田さんが音大の院生時代に彼のレッスンがあったそうで「青島センセは一度逢った人の名前と、逢った日にちをずっと暗記してはんねんテ…」と言っておられたのを思い出した。
「よどこんからは独りだけ?!」「はァ…、残念ですが…。自分たちの夏の演奏会で手一杯で…」「それは聞いてるけド…」確かに、あと一人でも…誰か騙くらかして複数人で参加していれば…こんなに敷居の高い思いをしなかったに違いない。
そうこうするうちに休憩時間も果て、コーラス・ソロの分担を確認して、駆け足のゲネプロは終わった。悲しいかな僕は、前夜の興奮の合宿には参加できず、越年した仕事の待つ自宅へと…とっぷり暮れた府境の山道を、ひたすら車を急がせる身であった。
おそらく、この「ザ」の付くシンフォニーホールで歌えるなんて経験も、これが最初で最後かも知れない…等と感慨に耽りながら、リハーサルの重い楽譜フォルダをめくる。もちろん暗譜はデキてないから本番もこのままだが…どういう訳だか最前列の端っコに立たされるハメに。いっそこんな宣伝塔になるんなら、胸によどこんマークでも縫いつけておくのだった…と、更に性懲りもないことを夢想しながら…高まる緊張感を味わうのであった。
●REPORT●わたしのコンサート評
■青島広志合唱スペシャル 合唱組曲「スサノオ」
Alto 弓庭育子
於 ザ・シンフォニーホール(1月6日)
去る1月6日(土)シンフォニーホールにて青島広志作曲の合唱組曲「スサノオ」の演奏会がありました。青島氏って、本誌『That's MANNERS!』の青島氏?本物に会える?Bassの谷さんも出る?と聞いて行ってきました。
遅刻した私…第一部の「唱歌の12か月」は聴けず、第二部の「スサノオ」から客席へ。谷さんはどこかな…男性は全員白いブレザーを着ていますが…あ、一人真っ黒なブレザーの谷さんが一列目にいました。さすがよどこん、目立ち方がちがいます。指揮者、朗読者、パーカッションとピアノの伴奏者が登場。あれが青島さん?わぁ、ピアノ弾いてるぅ…。青島氏を文筆家と思っていた私にはとても不思議な光景でした。
演奏は…私は雅楽風の演奏を想像していました。が、本物はさながら映画音楽のようで、あっという間にスサノオの物語の中にひきこまれました。普通の映画音楽と違う点は、それが言葉のついた歌なので情景が目に浮かびやすい、という点でしょうか。朗読者の長沢徹氏のナレーションも効果満点。合唱の声の響きとまとまりはもう一歩でしたが、若々しい声がホールにはじけていました。あちこちからソリストが現われては消え、団員が波のように移動し、目にも耳にも動きのある演奏で飽きることがありません。ただ、男声がやさしくひかえめで、男女がほぼ同数の割に「スサノオはどこや?」という印象です。わんぱくなスサノオがヤマタノオロチ相手に大あばれ、の場面は見せ場の一つですが、パーカッションの迫真の演奏に歌が追いつかなかったようです。いつのまにかオロチの首が落とされていて…物足りなさを感じました。がんばれ男の子!
たっぷり1時間うたいづめの大曲ですが、合唱団員の構成や、舞台演出、そして(おそらく)歌って楽しい、(実際)聴いて楽しい曲だったことなどから、作り手の遊び心がうかがえました。
●遠藤久顕の演奏会情報●
【ケンシロウの巻】「演奏会情報を一度も活用していないというのか。貴様のような奴はこうだ。あたたたたたたたたぁ!」「い、いま俺に何をした。」「お前の口はお前の意志とは無関係に『どんぐりころころ』を歌い続ける。血へどを吐くまで歌い続けるがいい」「ま、待ってくれ、何でもす…♪どんぐりころころどんぶりこ…」
January●1月
日程・曜日 団体名 会場
14・日 合唱団「伊呀の会」 大フィル会館
淀川工業高校グリークラブ サーティーホール
大阪シンフォニカー
ニューイヤーコンサートいずみホ−ル
18・木 大阪樟蔭女子大学コーラス部 尼崎アルカイックホール
神戸市外国語大学 神戸文化中ホール
20・土 関西学院大学グリークラブ 神戸文化大ホール
21・日 摂津混声合唱団 摂津市民文化ホール
25・木 武庫川女子大学コーラス部 尼崎アルカイックホール
27・土 大阪狭山市「第九」演奏会 SAYAMAホール
河内雅樹テノール・リサイタル いずみホ−ル
28・日 関西学院大学グリークラブ フェスティバルホール
30・火 大阪大学男声合唱団 フェスティバルホール
31・水 テレマン室内管弦楽団
新春コンサートいずみホ−ル
February●2月
日程・曜日 団体名 会場
10・土 ライプツィヒ聖トーマス教会合唱団 ザ・シンフォニーホール
11・日 合唱団京都エコー 京都コンサートホール
12・月 中丸三千繪ソプラノ・リサイタル いずみホ−ル
14・水 バレンタイン・コンサート'96
「愛の喜び」いずみホ−ル
15・木 白井光子&ハルトムート・ヘル いずみホ−ル
17・土 京都C.モンテヴェルディ合唱団 京都コンサートホール
ヒューストングランドオペラ
「ポーギーとベス」フェスティバルホール
●WITTY BREAK●遠藤久顕の位相幾何学概論
正月にピーナッツを沢山食べたら鼻血が出ました。チョコレートや肝油ドロップは聞いていましたが、ピーナッツはノーマークでした。思わず「それはないでござるよ、一休さん。」と新右衛門さんのマネをしてしまいました。第13回は「両面迷路」です。
●木寺洋介のHow do you do?●
昨年の11・12月は新入団員がいませんでした(見学者はいましたが)ので、今回は転居のお知らせのみです。看板に偽りありじゃ。
確か昨年の1月号も休載させていただいたはずで、どうやらこの季節は「新入空白期間」のようなのですね。団員名簿の入団月を見ても、なぜか11・12月の入団は少ない。やっぱり冬眠の季節なんでしょうかねぇ。
●編集後記●
本誌についてのご意見、ご感想をお待ちしています。また、合唱を取り巻く身の回りの愉快な出来事やエピソードなども、あわせてお知らせください。
編集部へのご連絡はE-mail:tani@ttdesign.co.jpにて。
YPO-VOL.23/Copyright(c)1996, T&T Design Lab.